主体を持つことは、大切です。
しかし、主体を持つことは簡単なことではありません。
どうして、それが難しいか?説明していきます。理由として、(外には)「世間的圧力」に遮られ、(内には)「自己愛による壁」に遮られるからです。

「世間的圧力」というもの

「自分たちは悪くはない、と考えたい。それが人間の心理です。つまり、自分たちの共同体は本来上手くいっているはずだが、異物を抱えているせいで問題が発生しているのだ―と考えたいのです。自分たちの共同体に根本的な問題があると考え、それを直視しようとすることには大きな痛みが伴いますが、身体がウイルスに侵されるように、国内に潜伏する異分子に原因を押し付ければ、それを排除してしまえばよい、という明快な答えにたどり着くことができます。P32 100分で名著 ハンナ・アーレント 全体主義の起原」

これは、ユダヤ人差別が起こり、そしてユダヤ人虐殺へと向かう背景を考察した一文です。
第一次大戦敗戦で莫大な負債を負ったドイツは、ドイツ民族として自信を失いかけていました。優秀なゲルマン民族国家を建国するという力強いスローガン(政治的なテーマ)に、一気に人々は引き寄せられ熱狂し、ナチスドイツ党は徐々に多数派になっていきました。それに反対する人は規制され、或いは自らが口をつぐむようになり、色々な意見は無くなっていきました。そして「優秀なゲルマン民族」は、「劣等なユダヤ人」を一方的に差別し、排除して行ったのです。

当たり前に、人々が色々な意見を発し、お互いの意見を聞き合うことが出来るなら、このような悲惨は免れたのでは?と思われるかもしれません。しかし、そのように出来なかったのは、複雑な集団心理が絡み合っていたからです。現代も戦争が起こり、同じような外国人差別の事例は、至る所にあります。ユダヤ人虐殺という未曽有の悲惨も、それほど遠くないところから始まっているのではないか?と思われることが、恐ろしいところです。

〇ことなかれ
〇臭いものに蓋
〇見ざる聞かざる言わざる
〇雉も鳴かずば撃たれまい
〇正直者は馬鹿を見る
〇言わぬが花
〇非常識(というレッテル)
〇顰蹙を買う(多数の心理を仮定したもの)
同調圧力と思われる言葉を挙げてみましたが、とても多いので驚きます。

同調圧力は、自分が思ったこと、感じたこと、それを発言したり、行動に起こしたり、表現したりすることにブレーキをかけます。これらの言葉は、立場が上の人間が使うと、暗黙のプレッシャー、パワーハラスメントにもつながります。「ほとぼりが冷める(まで放っておく)。」と、「水に流す。」も、立場が上の人間が使うと?今までの(悪い)ことは無かったことにしよう、というように聞こえます。虐めた方は簡単に「水に流して」しまえるのだけれども、虐められた方は「水に流す」ことは出来ません。立場が上の人間にとっては、「都合が良い」話です。
「雉も鳴かずば撃たれまい。」と上司に言われると縮みあがりますが、現実的にはそれほど起こる事例ではないと思います。頻繁に起こることは、「殿様ならきっとこう思うだろう。」と忖度することです。そのような無意識のプレッシャーを持っている同士が集まると、世間的圧力は事実化していきます。このような世間的圧力に対して立ちあがり、自分の意見を持ち続けることは、実は大変です。

「世間的圧力」は、個人を同質化へと向かわせます。
意見が言えなくなり、同質化した集団が、客観性を持たない集団として大きくなっていくとしたら、、、。
ナチスドイツ、かつての日本が、そういう流れであったとしたら、、、、。
今起こっている戦争も、類似するところが多くあるとしたら、、、、。
これは「ことなかれ」にするわけにも、「水に流す」わけにもいかないと思うのです。

最近、多様性を認める、それぞれの差異を包摂する、そのような言葉が良く聞かれるようになりました。でも多様性というものは、「私はこうだ」「私はそうではなく、こうだ」と、それぞれの違いをまず表明する=主体的行動から始まります。それが気軽に出来る状況でしょうか?多様性に逆行する現象が多く起こっているからこそ、多様性という言葉が良く使われるようになってきたのかも知れないと、私は思っています。
我々は、権威主義社会、全体主義社会に暮らしているのでしょうか?違います。それにもかかわらず、「私はこうだ」と言えなくなってしまう「空気」、これは大きな問題です。

「自己愛による壁」

自己と、自己愛とは切っても切れないものです。
自己中心性は、主体でもあります。
ただ、自己愛に偏ってしまうことも、良くあることのように思います。
それが行き着くと、自己愛偏重型人格障害というそうです。(ちなみに、アメリカの心理学者の多くが、トランプ元大統領に対して、そのように指摘していたと聞きました。)
自分は悪くない(自分は認めてもらえない)→他が悪い→他を攻撃し排除していく流れと、集団が「異物」を排除していった流れは、ハンナ・アーレントの考察を例にとると、明らかに相似形です。
移民国家、多民族国家だったアメリカは、トランプ大統領時代に、アメリカ人とアメリカ人以外に明確な線を引き、移民の受け入れを排除しました。分断という言葉が頻繁に使われるようになってきたのも、この頃です。最近よく聞かれる、包摂という言葉の背景には、他責→分断→孤立という社会問題があったと推察しています。

自己愛的心情を、具体的に上げてみました。
〇自分の理想的姿を前提とする
〇人前で良い恰好したい
〇自分は正しく、他が悪い
〇失敗を受け止められない
〇自分の出来ないことを恥と思う
〇自分が出来ないことを人のせいにする
〇人の話に耳を貸さない
これらは、良いも悪いも無く、皆さんが自然に持つ感情だと思います。
私自身もある!ある!です。

しかし偏ってしまうと、「自己愛による壁」を作るようになります。他責を行い、独断、偏見で判断するようになります。それは時間が経つほど、強固になり、牢獄のようになって、なかなかそこから出てこれない。また、自分に都合の良い他責は、コミュニティーを破壊していきます。他責をされたくない人は、人にどう思われるかを常に警戒し、自分に干渉されたくないから、人にも干渉しないという振る舞いをします。表面的には、人と関係しているようでも、内面は交流出来ないで、孤独を抱えている。他責を避ける心理から生まれた過剰防衛、これも自己肯定が強い余り起こってしまう、自己と他とのバランスを欠いた状態だと思います。

ここには、もし我が身を振り返るきっかけがなかったなら、何時でも私自身がそうなってしまうかも知れない恐ろしさがあります。