大学院時代の論考を掲載する。
日本庭園の特質
日本庭園の特質は人間と自然との関係、空間と造形、石、樹木、水などの景観要素への思い、限られた寿命を持つ人間にとっての時間や永遠性への意味など自然館や人生観の繁栄や、三次元的な景観以上に時間という四次元てきなものを内包した空間である。
庭とは、舗装された人工的囲み空間であると言われている。外から囲むことで独立した世界を確立することが庭園の本質であった。神仏が作った秩序世界そのものである大自然(山河)を身近な場に再現することが造園の目的であった。宇宙を縮小して地上に再現したミクロコスモスである。ゆえに抽象化され明確な構成を持つためには宇宙観(曼荼羅)や思想を基底に表現された(仏教、道教、禅など)。作為を打ち消し、それを覆う自然の変化や時間の蓄積がしっくりと落ち着いた状態「然び」をかもし出す。有限の生命しか与えられない人間にとって生きていた時間の存在を確認するために壮大な時間の流れを演出した。
借景「風景の生け捕り」
庭の内側と外の風景との有機的な対応関係であり、相反する要素を対立のまま統合する。相手を改変したり、手を触れたりせずして自分の側を操作することによって相手方と完全に一体化する方法である。内と外との対比や対象をトリミングするためのフレーミングを必要とする。(外の緑に対して内側の白砂敷など)借景は、現実世界とのぶつかり愛に対して積極的な考え方だと言える。
以下借景の要素を
A内側
B外側
Cフレーミング
D身体と図化して論じていく。
D身体性
日本では現実世界を構築するというより、心の中に理想や美を見出すことにより、現実を自由に認識する。
(最終的な目的は自身の内部であるとでも言おうか)また宗教世界では身体が異世界への入り口として機能するとされ、至高に至る経路はボディ→マインド→スピリットと順序を踏む。修行者は自身の身体を酷使することで、高みに至ろうとする。ここに見られる共通の要素は身体の変転である。
そして日本の芸能を解釈する場合、宗教性を色濃く残している点には留意しなければならない。庭の場合は、微妙に傾斜した歩道、石組、樹芸、白砂などのコントラストに身体で触れることで、仮想現実的世界を感受したのではないか。人を中心にして積極的に新体制を考えることで生成し、また身体内部に印象が還元されていくよう設計されていると思われる。
日本庭園を空間の構成から三分割すると①定視式、②路地式、③回遊式となる。
茶室の場合は、より顕著にその傾向が見られる。
狭い出入口(日常性の流入を拒み、入る者に変身を強いる結界)から狭い部屋(舞台であり、客席でもある、それらが一体となった場)に入り、亭主(演者)と客(観客)が密着する過密で一体感を持つ空間で、それぞれが演技し劇的なイメージに酔う。
自身の中に美を造り出す装置とも言うべき、意識の変容を促す高度なシミュレーションではないだろうか。
私は、宗教性と精神性のはざまを探ること、そして現実そのものでありながら異世界への窓ともなる身体、これらを作品制作の上で注目すべき要素として考えていきたい。
A内側(超現実的世界の表現)
磐座、磐境、神池、神島などが庭の原型と言われている。
これらは古来の自然信仰の対象とされているもので、自然の中に実際にあった岩や池などである。庭の成立には美意識いじょうに形而上世界への祈りが関係している。
現実世界以上に見えない神仏の世界に対するイコノロジーとして視線に秩序が、生活の身辺を常に覆っていると意識していたことは、ジネンという言葉にも表れている。
ジネン(自然)とはおのずからしかる、みずからしかるという状態を指したものだった。つまり自然に包まれた中で人間もまたその一部として共存し、バランスを取っていたという思想の表れでもある。
西洋の庭にも異世界へと通じる象徴物としての手付かずの森や洞窟などが、周辺部に設置されていた。(知性と理性の支配する中心部に対して、聖性と魔性を象徴した補完的要素として)
超現実世界を認識することは、古代人にとっても現代人にとっても,それなりの必然性があったのではないかと思っている。
近年、環境問題により自然や未知の世界への関心が高まっているのではないだろうか。現代においては、ジネン的生活は現実とは程遠い世界だが、超現実世界がいかがわしく非現実的であると捉えられていた時よりは、身近な存在として現実に対する批評性を持ち得るのではないかと考えている。
Cフレーミング
フレーミングとは区別することによって、互いを独立させる機能だが、内と外との関係性においてフレーミングは成立する。
全体に対して、部分に意味付けを行うことで相互が機能するための相補完的なものである。芸術の場合、強調、特異化などの技術として境界を設けることにより、互いのコミュニケーション(交流)を高い次元に引き上げることに目的が置かれている。絵画の場合では、描かれた世界と現実世界を隔てるものとして、額が存在してきた。作品を独立させ有限化させることで、(現実世界から)異世界に通じる窓となっていると言えよう。
日本では、可変的心理的フレーミングといったものがある。
庭と室内が連続する家屋は可変的フレーミング、注連縄、鳥居、止め石などは心理的フレーミングと言えるだろう。そして双方とも、身体に基準を置き身体性に左右されるという共通点がある。絵画においても、よりよく対面するために大きさや高さに応じて距離を取り、内容に応じて歩き、視点を移動させることに、身体性に対する影響関係が成立している。また茶室では床の間や窓、庭では壁面越しに見える景色やで出入口などが、フレーミングによって場に影響し、更に身体にも影響を与えている。
フレーミングの影響を物質的なもの以上に、心理的なもの、観念的なものまで解釈していきたい。(フレーミングを人の心理および身体性に訴えかける装置として)身体や現実と積極的にかかわり、規制の境界を揺り動かし、新たな関係を取り結ぶ要素として、フレーミングの設定に可能性を感じている。
B外側(現実)
現代社会の中で私たちは様々な境界を設け、自らを規制することで生きている。
それは物質的な壁だけではなく、法律、イデオロギー、民族、経済、宗教など、見えない境界が縦走していると言えよう。
そして今、境界に対する意識は転換点を迎え、単一的価値観から相対的多様的価値観の併存へと、メディアは個人から地球規模へとネットワークの幅を拡大している。現実に起こっている諸問題は、もはや複数の境界の関係性から考えていかねばならず、独立から共存への可能性を模索している時期と言えよう。もはや内側と外側が行儀よく納まっている時代ではないだろう。私は、作品をありのままの現実に対して、積極的にぶつけ会わせて言ってよいと思っている。内部世界(作品)を深めるために、新しい関係性を模索するために必要不可欠な要素は、現実そのものだと言っていいだろう。
庭=両義性を可能にする空間として
西洋的な論理的方法論においては、あるものを追求するためには、他を余分なものとして切り捨てなければならない。対象自体の自立性を高めることで、独立させ、純粋化させるが、それに対する解釈は内部でしか成り立たない。この流れはそれぞれの分野を細々と分節化して確立させたが、社会一般からは遊離していく。
一方、現代美術は一般社会を映す鏡として機能している。
現代美術の立たされている立場は、包括的でありながら部分的=個であるというアンビバレントな状況である。また現代人のメンタリティーにおいても、自我という観念に限界を感じながらも、自我にこだわらざるを得ない、同様の状態が実感できる。
したがって、私は現実を受け入れ現実と共に成り立つ受け皿、閉じられた境界を揺り動かし、新たな関係を結ぶ可能性のある方法論を切望していた。そこで登場したのが借景である。借景の方法論においては、境界は対象を独立させる以上に、積極的な関係を造り出すために設置され、内部の自立性よりも外との対応関係によって、中身自体が変化するとという点に特徴がある。
現実を告発する方法(批評性)や内面世界の独立化など、一方的な提示ではなく相補的で相反する要素が共存するシステムとして、可能性を指示してくれる。
共存のためのアプローチ、またはイデア、非境界なる世界のための方法論として。
