対立を生み出す方法論、あるいは手法は、なぜ必要とされたか?
自らの存在が不確かに思える瞬間あるいは時代、これまでの制度に対する疑い、またはこれまでにあった人間存在というものの位置や背景といったものに対して、捉え直すための揺さぶり行為と了解している。
何時の時代も、個というものは揺れ動く。
カウンターは、アイデンティティーを模索するための「問い」として不可欠なものであろう。
人間が生きて死んでいく上で、どうしても自己のアイデンティティーを求めてしまうとするなら、アイデンティティーが見えにくくなっている時こそ、カウンターは必要とされるかもしれない。
現代においては、カウンターの内容、意図によって、様々な方向が含まれる。
直接的に、個、社会、政治に対して「NO!」にぶつけるものから、過去からの伝統や自然世界を引き付けることが、カウンターとして作用することは十分ある。
カウンターとは、偏った振り子のバランスを取り戻す手法でもある。
都美術館に展示を拒否されたことは、単に管理や保全という理由だが、当時私は、カウンター表現として成立させることが出来なかった。
言い訳のような展示をしたと揶揄した人もいたが、今となっては心残りでもある。
しかし、もの派を借りてくるならば、それが登場した時、既成の制度に乗らないがために受けた大きな非難は、新しさゆえの必然だった。
もの派はカウンター表現として成立していたのであり、それが無ければ、もの派は歴史に残らなかっただろう。
今も、前提として、管理や保全が問われることを鑑みると、美術制度というものはそれほど変わっていない。
カウンター表現と、それが生み出す対立を超えていく力が、作家にとって本来的に問われているとも思える。
時として、歩み寄ることも必要かもしれない。
しかし、制度と、内容の、どちらが重要視されるべきなのか、答えは明白である。
→穏質3 卒業制作展 東京都美術館