庭を囲む境界は、日常空間と「深山幽谷」を切り分け、非日常空間を演出するものである。
岩クラ、岩サカと呼ばれる自然の中にあった大きな岩や岩の集まり庭の起源であり、その後、信仰の対象として境界で囲まれ、玉石を敷き詰め社を立てて「神社」へと展開する。
庭は、そのような非日常空間を日常に引き付ける為に作られた、家屋内「信仰空間」でもあった。
庭の内部に、多くの時間の経過した様=エイジングが行われるのは、永遠の時間つまり宇宙を模そうとする故である。
壁に向かう地面の勾配は、徐々に高くし、壁の寸前で勾配を下げる。壁に区切られつつも、外に向かって空間の広がりを感じさせる工夫だが、これも永遠の空間である宇宙を模そうとしている。
枯山水という、大胆な抽象表現を取り入れる理由もまた、同様である。
具体的になればなるほど、樹木も意思も白砂もそれ以上の意味を持ちえない。抽象化するからこそ、象徴として他の意味の「入れ物」となる。他の意味になるものは、やはり宇宙、仏教の言葉でいえば仏国土となる。境内の庭に仏国土が表されている、背景としては当然なことだが、象徴を取り入れる抽象化であっても、それは概念だけではない。具体的なものにも「聖性」が宿るという、抽象と具体性の間をつなぐ中間領域が、それを可能にしている。
本来美術は、「聖性」を持つ。
中世の「宗教芸術」から、個の「リアリズム」へと美術史は変遷したが、それでも内奥に持つものは、形を変えた「聖性」であるというのは、私の意見である。
現代美術では、告発的な内容を持つ多い。
「毒」のない作品は、批評性を持たない「宗教芸術」のごとく評されるが、私は「その先」を含んでいるものが美術だと考えている。ドイツカッセルで行われるドクメンタは、今後の美術を問う世界的美術展だが、黒鳥と白鳥がシンボルになっている。黒鳥と白鳥は、毒と薬の意味を持つそうだ。しかし、本来持つべき「聖性」が二者択一で失われ、「その先」が毒だけでは辛い。
庭の現代美術に用いるべき特性として、「風景の生け捕り-借景」がある。
壁の遠方に見える風景と、壁の内部の対応関係、内部と外部の共鳴関係である。遠方の対象から内部を見たときに、それらが相似形で結ばれ響きあっていたり、意味の繋がりを感じられたり、内部空間が急にスケールアップしたりと、とても大胆な空間操作であることは間違いがない。
逆に家屋に囲まれた「坪庭」の場合は、それを包んでいる縁台が、壁の代わりをする。人間の生活空間が借景となって、「坪庭」はスケールダウンした「小宇宙」、多くのものを凝縮した空間に見えるだろう。箱庭の壁も、盆栽の鉢の囲みも同じような空間を持つ。
現代美術が、遮蔽された真っ白な空間-ホワイトキューブに設置された場合、外との繋がりを内包しないものであれば、唯の個人的非日常空間になってしまう。社会との繋がりなど、コンセプトの強度が求められる。
庭の現代美術に用いるべき特性の第二要素は、歩行空間の切り分けである。
能舞台や歌舞伎の舞台のように、まず導入部、内部、退出部が分節化される。茶庭になると、更に作法に則って待合場、手洗い場と、それらを繋ぐ時間的配慮まで空間に演出される。「仕切り」が用いられ、空間の節目となるが、「門」であったり隙間を多く取った「竹組み」であったりして、壁のような強固な境界ではない。
歩行や移動によって、物の見え方は著しく変化する。このように空間に分節点を置き、作法が行動を通して心に影響するため、庭は「儀式」化した大胆な身体的演出空間と言えるだろう。
これらを積極的に生かした現代美術は多い。
しかし歩行や移動を、何を目的にして行うかという点が、問われなければならない。
「歩行儀式」は元を帰せば、迷路や都市空間の巡礼で行われている「自然」への「祈り」である。そのことを今一度考え直すべきだと、私は思っている。
この庭の持つ内部空間の意味、壁面の空間操作、身体の空間演出は、現代の芸術分野に大きな示唆を与えている。
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14garden
15そして城は崩れ、扉は開かれる
16白州巡礼
17nevertheless
18野点