エネルギーに満ちた場だった。
名峰甲斐駒ヶ岳が眼前にそびえ、日本有数の名水が湧く水の流れはどこまでも澄み切っていて、生命力に満ちた樹木たちから発散される酸素は、味がした。
パフォーマンスの主な舞台となった神社は、確かに神気が漂っていた。
チラシではアートキャンプ白州となっているが、我々美術家たちは、白洲フェスティバルと呼んでいたと記憶している。
それは、夏期に集中して行うイベントがアートキャンプ白州であり、パフォーマンス部門は短期集中の必要性がある。それにしてもパフォーマンス部門は人気を博し眩しく思えたのに対し、美術部門は長期の制作を地味に活動するため、白洲フェスティバルと呼んだのだろう。ただ、名称の違いは特筆するようなことではなく、ただ「白州」だけで皆が理解し、事が済んだ。
白洲フェスティバルが画期的なアートイベントであったにもかかわらず、世間ではあまり認知されていない。
市川湖畔美術館で、白洲フェスティバルを振り返る展示が行われたが、主要関係者が故人となる中、美術の核となる記憶は多くが薄れつつある。そういった状況での総括であったことは、このフェスティバルの本来のものを伝えることがもはや叶わないことを思い起こさせ、残念だった。
記録が上手く残らなかった原因には、多くの不運が重なっている。
中核だった榎倉康二氏の死去、好悪両面あるが、美術評論家が主体にならず、作家主体であったことは、組織的な撮影記録などの組織的運営が出来ない理由にもなっていただろう。美術部門はそれぞれ作家主体で行動し、各々が撮影記録していくしかなかった。制作をしながら記録するという余裕を持つことは、一部を除いて困難だったはずだ。
少額の補助は出たが、作家本人が自身の目的のため、心ゆくまで作品を追求するスタイルは、それぞれが手弁当で行うことで成り立つ。榎倉康二氏、原口典之氏の作品は大きな規模で、ご当人たちはどれだけ持ち出しをしたか分からない。榎倉康二氏、原口典之氏、高山 登氏は美術部門の中心、白洲フェスティバルの存在理由でもあり、心血を注いだ作品は、日本の美術史に記録されるにふさわしい質を持っていたと、私は思っている。
しかし、その後バブルが弾け、経済的余裕のない美術家たちが、白洲フェスティバルに継続的に関わることは難しい選択だった。
榎倉康二氏の作品、森の中に佇むコンクリートの壁は、木漏れ日や雨の滴りを内部に取り込み、それらが何時しか沁みとなって壁の景色となる。静かでありながら、自然の変化全てを取り込みながら自立する強靭さを持っていた。聞くところによると、二つの内一つの作品は、今でも見ることが出来る。
原口典之氏の作品、広大な鉄枠には水がたまり、隣接する田と相似形ながら、異様な存在感を発していた。この場は、舞踏を行う場として、良く使用されていた。
剣持和夫氏の作品は、まさに、フェスティバルのシンボル・タワーとなっていた。これら作品は、それぞれの活動歴の中でも大きな存在感を放っていると感じる。
白洲フェスティバルは、榎倉康二氏、高山登氏、原口典之氏を中心とする。「芸大もの派」といわれたつながりから派生した美術家集団だった。参加条件は推薦制だが、作家の主体性が問われる。制作するために、古屋を改造した宿泊所で、自炊、雑魚寝をする。更に、大作家の作品を前にして、弱音を吐く状況はない。
美術にとって特に挑戦的なことは、自然を作品に内在化させるという命題である。大自然は、作品にとっても厳しい。作品は屋外設置であるため、自然の風雨に晒され、風化に耐えるか、風化を共にするか、作家に重い決断を迫る。作家各々が、存在そのものを自らに問いかけ、対峙することになるのだ。
白洲フェスティバルは、インディペンデンシーが核である。
それぞれ作家が何か面白いことを始めたいと思いを持ちより、自らが表現し、共演し、そしてまた自分のものとしてエネルギーを持ち帰るようなイベントは、金銭的成功や観客動員数といった、今日当たり前のように持ち出される経済的基準とは異なる。
インディペンデントな美術家、舞踏家、音楽家は、それぞれエネルギッシュな人々で、それぞれの偶発的な出会いがセッションに発展し、更にそれぞれのエネルギーがぶつかり合うような、表現の坩堝が出現していた。アーティスト本位で見返りを求めないものだったからこそ、出会いが相乗効果となって、稀に見る質を実現したのだろう。今、ここを大切にし、あらん限りのインプロビゼーションを奏で合う、そのような場が不特定に多数出現していた。
一方、観客は、テントか小屋での雑魚寝という、文字通りアウトドアの環境で、作品やパフォーマンスに触れ、自分がしっかりしていないと、そのエネルギーに暑気当たりしてしまいそうな、野性を取り戻していかざるを得ないような場だった。誰でも見に来てくださいというより、強い刺激を求め、受け入れていきたい人々が、観客として集まってきたように思える。
制度化、管理化された中で、このようなことは起こり得ないだろう。社会的有用性とインディペンデントは、上手くそぐわない。社会的有用性は自由度を狭め、強い個性を持つ作家はそれを望む傾向にはない。得てして、自主独立で、自分のコンセプトを研ぎ澄ました作家の方が、インパクトのある内容を持ち、作品も強い。社会的有用性を前提とした作家に、インパクトのある内容と、作品の強度が持てるだろうか。観客動員数や金銭的価値を第一とすることに、白洲フェスティバルの存在は疑問を投げかける。
白洲フェスティバルで行われていたことは、ホワイトキューブでアートマーケットに用意された質とは、根本的に異なる。
後に知ることになるが、もの派の著名な評論家である峯村敏明氏と、榎倉康二氏とは、もの派の名称および美術制度の在り方について確執があった。峯村敏明氏がキュレーションする「多摩美もの派」関連作家は、西武美術館でポストもの派を展開していたが、白洲フェスティバル主要作家には、これらに対するカウンター的思惑があったのかも知れない。ポストもの派展では、もの派とは逆に、オブジェ志向を強めているように感じるのに対し、白洲フェスティバルは、大自然と対峙する本質的な方向、存在そのものを問うことだったと感じている。
ポストもの派展は美術史に大きく取り上げられているのに対し、白洲フェスティバルはこれまで取り上げられてることが少なかった。
白洲フェスティバルは、美術史に空いた穴となっている。
