ーSuit Glaucus-series 歳森 勲 個展に際し、ルッキズムの指摘を受け、改めて女性美、性差、差別に関して、感じたことを記したものです。ー

差異は、もともと在るもの。
差別は、それに(一方的に)優劣を付けるもの。
エロスは、もともと在るもの。
性差別は、それに(一方的に)貴賎を付けるもの。
大きくは、そのように解釈している。

今回、個展でトルソを作って展示した。
自分のイメージを基に、理想的プロポーションを追及した。過去、神像や仏像が、人間を基に超越的な姿を抽出したように、現実を超えた姿を顕そうと3年掛けた。また、トルソには、エロスも感じながらその姿を追求した。これらのことは、私の中では何も矛盾しない。
具象彫刻で一般的なものは駅周辺にあるブロンズ像だが、近年人々の耳目を集めることが、彫刻作品の性に関する箇所である。具象彫刻には、平和や友愛など象徴的なテーマを込めて、理想像を追及することが多いのだが、彫刻の全体像ではなく局部に焦点が当たることには、とても違和感を感じる。また写真展で、ヌードの局部を布で覆うなどの「検閲」が行われた(戦前もそれが行われたと聞く)。もはやフル・ヌードは、ありのままのリアルで、崇高なものでは無くなってしまったのだろうか?様々な意見が、多様性を広げる方向ではなく、それぞれを窮屈にしていると感じるのは私だけだろうか?
エロスを感じる人体というテーマは、現代、問題提起となる。女性の男性目線に対する反感は、コンプレックスや性差別に対する嫌悪も含んでいて根深い。差別の原因をはっきりさせることに異論はないが、差別⇔逆差別という非難の応酬に、多様性が開ける未来は感じない。制作途中、ルッキズムを非難する言説が有ったことを聞き知ったが、真意を聞くために私に問うてくる人は、ただの一人もいなかった。必要なのは、非難の応酬ではなく対話である。

差別の根拠となる男女の違いは、LGBTQもそうだが、果たして明瞭なものだろうか?そもそも、男女の性差でさえ分かっているものだろうか?「男と女の間には、暗くて深い河がある。」という古歌があるように、男女の関係さえ深遠だ。それを分かっているか?と問われれば、わかっていると言い切るのは傲慢に思える。取るべき姿勢は、わかっていないことを正直に認識し、耳を傾けることではないか?

LGBTQでは、男女の違い以上に、それぞれに差異があり、それだけ複雑であるという事実が示されたことになる。差別を否定することは正しいと思うが、私は、それぞれの差異がどのようであるか抽象的にしか理解していない。抽象的な理解だけでは、LGBTQそれぞれを尊重することにつながらない、結局それぞれの個を理解することでしか理解は生まれないのではないか?と思える。それぞれの個というものを、どこまで分かり合えるだろうか?問われれば、全部ではないが少しは理解しているとしか、私は答えようが無い。

人の心がわかる前に、自分のことはわかっているか?と問われれば、正直、わかるようでわからない。社会的規定、名前、職業など、他から規定された自分の姿は、自我の檻というべき外殻だ。その内側には、自我という深淵が広がっている。欲求や感情などの多くの反応を飲み込んでいく深淵は、溜まったものを不意に噴き出させたりもする。フロイト以前は、その反応はオカルティックなものと思われてきた。精神というものは当に「Ghost in the shell」、その反応を生霊の叫びと例えるのは案外的を得ている。その中にはエロスも、デモーニッシュなものも確かにあり、理解することもコントロールすることも簡単だとも思わない。

こうしてみると、わかったつもりでも、実にわからないということが多い。わからないなら、実際は良いも悪いも言いようがないはずなのに、わかったつもりになって安易に良い悪いを言ってしまう。これは、案外性質が悪く、多くの人が軽い気持ちで、生理的に或いは好き嫌いで反応しても、それが多数になれば慣例とされて引き継がれてしまったりする。女性は家庭にいるべきというものもその典型、ハンセン氏病の差別、肌の色の差別など、今までそうだったから、好きじゃないから、などの安易な認識の中に差別の根は潜んでいる。

LGBTQに関しても、安易な制度化、カテゴライズには疑問を感じる。能力、効率、人種、男女、出生率、様々なカテゴライズがあるだろうが、それは人間の管理、整理によるもので、個人的なものは含まれない。それに対してエロスは、極めて個人的なものであり、個人の肉体から発した、人類にとって切っても切れない本能である。だから、肉体、個というものを細かく鑑みることなく、区別や制度化を議論することは不自然かつ抽象的なものになり、安易な認識で人を判断するものとして反対する立場を採りたい。

また、エロスは、創作活動においても重要な位置を占めていると思える。ルッキズムに関して、男性原理に基づいた評価基準があまりにも強く、女性から見た評価基準ではないという意見は肯定できるが、女性に美を感じてきた美術史をバッサリ否定するような意見には賛同できない。私は、自分の深淵を探りたいと思っているし、自分の奥底にエロスがあることは否定出来ない。だから創作活動において、自己の可能性を模索する中で、自然に出来てきた作品がエロチックであった場合に、その作品を単なるルッキズムということで否定的に反応することは、やはり安易な認識で人を判断することにしか思えない。

榎倉康二氏は、作品におけるエロスを大切にしていた。簡潔な白と黒の作品におけるエロスは、もちろん即物的なものでも説明的なものではなく、皮膚及び皮膚感覚にまつわるものだ。作品を自分で体現しなければ、わからないということも多いと思うので、道半ばの私は彼の作品について多くを語ることは出来ない。しかし、わかって行きたいと強く思っている。わからないということは前提にするならば、探り、耳を傾けることになるし、わかりたいと思うことは、興味になり好意にも繋がっていく。ここには、柔らかくデリケートな関係がある。ただ理解していくためには、時間が掛かることを織り込まなければならないだろう。相手が応えてくれるまで沿い続けることは、忍耐を必要とする。