ー写真について 「あぶない」が消えている掲示板は、危険を見過ごす象徴のようです。ー
ー記事について ネット世論操作、ポピュリズム、同質化社会に潜む問題を記したものです。ー

「世間的圧力」と「自己愛による壁」は、とても身近で、理性的に対処することが難しい問題です。

更に、これらが集団化して、独り歩きしている状況が存在していると思います。個人が集団に飲み込まれた時に、個は客観性を失いやすく、主体というものが希薄になっていきます。表では、堂々と発言する人は少なく、裏では、匿名で盛んにおこなわれているという類のもので、「赤信号みんなで渡れば怖くない」式のエスカレーションが起こります。起こすつもりもなく、起こしている自覚も無く、起きてしまう「悪」。これらは、ささやかな場所から始まって、社会全体を巻き込むところまで発展するリスクがあります。

いじめ
ネットの誹謗中傷
スクールカーストと学力格差
経済格差
フェイクニュース
障碍者差別
優性思想と外国人差別
人種差別
宗教差別
性差別
思想の右傾化
右翼と左翼の分断
民主主義の衰退

社会問題を上げていくと、こんなにたくさん上がることにびっくりします。これらは過去から引き継がれてきたものもありますが、現在、数を増やしているように思えます。これらは「凡庸なる悪」であると思っています。

「凡庸なる悪」

政治哲学者ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)はユダヤ人であり、実際にナチス・ドイツの迫害を受け、「全体主義の起源」という著作で、ナチス・ドイツが生まれてきた背景を考察しました。ユダヤ人虐殺の責任者=アイヒマンの裁判を傍聴した際に、「凡庸なる悪」という言葉が生まれました。

アイヒマンの裁判記録から、彼の言動を拾います。
〇「私は当時、命令に忠実に従い、それを忠実に実行することに、何というべきか、精神的な満足感を見出していたのです。命令された内容はなんであれ、です。」
〇「戦争中には、たった1つしか責任は問われません。命令に従う責任ということです。もし命令に背けば軍法会議にかけられます。そういう中で命令に従う以外には何もできなかったし、自らの誓いによっても縛られていたのです。」
〇「1人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない。」
〇「私の罪は従順だったことだ。」
アイヒマンの言動を聞いた、学者の言葉を拾います。
〇「アイヒマンは、極悪人ではなく、ごく普通の小心者で取るに足らない役人に過ぎなかった。」(ハンナ・アーレント)
〇「ボタンを押せと命じられればボタンを押し、そのボタンを正確に押すことだけに腐心してしまい、ボタンを押せば誰がどこで生命を失うかといったことは考えもしないという、まさしく陳腐な人間を体現していたのだ。」 (心理学者ブルーノ・ベッテルハイム)

出典元「100分で名著69 ハンナ・アーレント 全体主義の起原 NHK 」「アイヒマンの裁判記録」

私は、この事件は、持つべき主体というものを失ってしまった人間は、どのようなことも行ってしまう可能性がある、その最悪の事例を指し示したもののように思えます。しかし極端な例だとして、この事例を片付けることが出来ないのは、どこの国であれ、どこの会社であれ、社会というものには「世間的圧力」「集団心理」「組織の論理」などが必ず存在するからです。そして、良心の呵責がスリップしてしまう事例は、今回の戦争も含めて、頻繁に起こっています。
なぜ組織の中で、自分で考え、自分で判断していくことが出来なくなってしまうのか?「世間的圧力」「集団心理」「組織の論理」に対して、自分=個の在り方がどうあるべきか、簡単に答えの出せることではありません。

カオナシ

「千と千尋の神隠し」に登場する「カオナシ」には、忘れることが出来ない強烈な印象を持っています。顔が無い、ということで「カオナシ」になっていると思いますが、匿名という意味も強く感じさせます。

奉公人を飲み込んで、手足と言葉を得ます。
→なりすまし。他人を乗っ取り、自分のものとして豹変。他人に対する敬意も減ったくれもない、自己中心性。
偽のお金を生み出し、ご馳走をどん欲に食らいます。
→際限のない欲望。バブル経済の様に、実を伴わない価値に、奉公人は狂乱します。匿名で強くなる人のようでもあります。
千を欲し、お金を差し出します。
→安易な承認欲求。お友達になりたいのかも知れませんが、「金をやるから言うことを聞け」という一方的かつ強引な方法です。傲慢。
千に断られると、感情的になって暴れます。
→欲しいものが得られないと癇癪を起こす。自分の思い通りにならないと、怒りに変わる幼児性。
苦だんごを食べさせられ、口から汚物を吐き出して、小さくなっていきます。
→苦だんごは解毒剤のようです。吐き出した量からして、食べ物だけでなく、溜め込んだ毒も多く含まれているみたいです。
すっかり元の大きさに戻り、千に付いていきます。
→別人のようにおとなしくなります。素の姿では弱々しく、自分という存在感が希薄。捕まって糾弾されなかったことに、救いがあります。
銭婆の糸巻を手伝います。
→何ものでもなかった存在が、何ものかになる瞬間です。自分を認められて、人に役立つことが、何だかうれしそうです。包摂。

「顔」とは、社会との関係性を象徴するものです。顔を出す、それは、その人がどういう人で何をやっているか分かる、ということです。そして、お互いを知り、お互いの関係性を持つ。
「顔が無い」ということは、社会に対して関係性を持たない、或いは持てないことです。昨今は、多くの人々が孤独になり、「カオナシ」は、特別な存在ではありません。社会に対して直接的なコミュニケーションを取らない、つまり本心を隠して生活している人を含めると、「顔が無い」人はとてもたくさんになると思います。ずいぶん前に作られた作品ですが、既に今日の状況を言い当てている宮崎駿氏の洞察力というものには、敬服せざるを得ません。

これらの例は、極端に思われるかも知れませんが、実は身近なところにあると思います。リアルな世界との接点を持たないということは、世界を計る物差しを持たないということです。物差し=客観性が持てないと、自己中心性が万能感を伴って暴走してしまうことは、有りがちなことだと思えます。そして、暴走が大事件につながることは、現在「普通」になってしまいました。

「凡庸な悪」に注目してニュースを見て見ると、実際に戦争が起こってしまった現在、たくさんのアイヒマンやカオナシを発見することが出来るように思います。「凡庸な悪」を意識していくことは、我々のブレーキとして機能するだけではなく、サバイバルにとっても必要なことと思えます。