2000年2月よりおよそ1年間台湾に滞在して、この[Pleasant Days]というプロジェクトを行った。ポーラ若手芸術家海外留学奨学金を得て、海外在住制作の地として台湾を選んだ。日本と深い関係を持つアジアの隣人・台湾で、自身や日本について捉え直す機会になると考えた。その直後、921大地震が起き、それまでのプランを取りやめ、被災地でアーティストとしてできることはないかと考えた。
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まず台北で陶器の壷を制作した。それは底が三角形、次は四角形、五角、六角…そして円までが縦につながったフォルムの壷となった。国家や民族、世代、さまざまな異なるものが繋がることのメタファーとして制作されたこの壷は、インタビューをしたお年寄一人一人に贈られた。中華民國視覚芸術協会が企画した『心靈重建、藝術重建』というプログラムに神戸のAct Kobe Japan*のメンバーとともに参加し、台中の様々な方々の協力を得て、最終的に10名のお年寄にインタビューすることができた。邵(シャオ)族2名、泰雅(タイヤル)族3名を含む66歳から85歳までの方々と、日本語で対話し、映像作品としてまとめた。

展覧会では、対話を編集した映像をプロジェクションするとともに、台湾の昔と現在の風景や地震の風景を、スライドで投影するインスタレーションとして発表した。また、10名の方々の肖像写真をもとにした平面作品、白い壷も展示された。
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A Japanese young artist, Isao Toshimori, worked on Pleasant Days project in Taiwan for one year, beginning in February 2000. He chose Taiwan for his first foreign residence because Taiwan has had a historically close relationship with Japan and he thought that this experience would give him an opportunity to review his perceptions of himself and Japan. Then, a powerful earthquake hit Taichung area on September 21, 1999. Toshimori entirely gave up on his previous plan, as he questioned himself on what he could do as an artist in the devastated area. He started to work on this new project, later entitled Pleasant Days.
Toshimori decided to interview elderly people who had experienced the earthquake in Taichung. Prior to the interview, he created ceramic pots in Taipei. The bottom of the first pot was triangular, which connected to a square-bottomed one, to a pentagon, to a hexagon, all the way up to a round one. This beautiful vertical form in white became a metaphor of linking people beyond their differences of nationalities, races, generations, and others. He gave a white pot to each elderly person as a gift.
Through attending a program, Revived Spirit, Reconstructed Art, organized by Association of the Visual Arts in Taiwan, with other Act Kobe Japan* artists, Toshimori met some Taiya people. This and other people helped him to interview ten elderly people in Taichung. He had dialogues in Japanese with the people, from sixty-six to eighty-five years old, including two Xiao and three Taiya people.
At the exhibitions, a video installation of the interviews, combined with slide projections of old and present Taiwan landscapes and the damage of the earthquake is being shown. The two-dimensional works based on the ten elderly people in photographic images and the white pots are also exhibited.

インタビュー

邵(シャオ)族

邵(シャオ)族は台湾で一番少数の原住民であり、台湾中央部の湖-日月澤の周りに居住している。日月澤は有名な観光地であり、多くの人々が観光業で暮らしている。特色として歌や踊りなどの固有の文化を持ち、今でも湖の神様対する信仰は厚い。
しかし地震の被害は相当なものがあった。観光客激減と復興に対する費用、重大な局面において彼らがより意識したことは文化だったという。それまで時代の変化と共に自然に失われていた伝統文化を、彼らは意識的に捉え直そうとしている。集落は皆仮設住宅で狭いが、外装として伝統的な竹を取り入れ、自分たちの力で葺いて住んでいた。ここで出会う二人の御老人は、やはり文化について熱意をもって語った。

01 劉秘番さん(プニさん)77歳
Puni-Hihiyan, 77years old, Xiao tribes

いつもくるくると働き、よく歌う。
タバコも酒も楽しむ。いつも元気で朗らかだ。
彼女は言った。「何も心配することは無い。よく体を動かし、歌を歌えばいい。」と。
プニさんは、部族で有名な歌や踊りの継承者の中心人物であり、族長の母親でもある。杵突き歌は、何人もの女の人が杵を使うリズムセクションである。若い人たちに文化を継承していく指導者の立場から、世代間の意識の違いに悩んでいた。生活がアメリカ型になるのはどこの国でも共通している。しかし深刻にはならないおおらかさが、彼らにはある。今でも思い出すのは、美しい自然と降り注ぐ日差しである。この湖は不思議な青い色をしていて、台湾のへそとも呼ばれている。この自然がある限りきっと何とかなる、そんな気がした。

02 石阿松さん(キラシさん)78歳
Kierashi, 78years old, Xiao tribes

ずっと体を動かして働いてきた。
いつも、ただひたすら働いてきた。
だから年をとった今でも当然、現役だ。
うつむきながら、しぼりだすように、彼はそうできなかったのに、彼は言った。
人生はまっすぐ一筋に生きればいいと。
やさしい目をしていつもおだやかにしゃべるおじいさんだった。彼の行くところにはいつも白いむくむくの犬が追いかけてきていた。花を栽培していて今も現役でよく体を動かして働いている。私も手伝ったが、楽な仕事ではない。誠実にまめまめしく働いていらした。ずっと体を動かして働いてきた。いつもたくさん働いてきた。だから年をとった今でも当然のように現役だ。
戦争によって方向修正を迫られた人はたくさんいる。彼も戦争によって十分な教育が受けられなかったと語った。うつむきながら「人生はまっすぐ一筋に生きればいい」と彼は言った。彼はそうできなかった、しぼりだすように語ったそれを忘れられない。
次の日、邵族の歌がこの地域の神に捧げられるだけのものではなく、世界の人が歌えるようになればいいと彼は言った。邵の歌はすばらしい、興味があると言った時のことだ。彼らは祭りの時以外歌えない禁歌を多く持っている。それも敬けんさゆえであり、CDになって多くの人が耳にするような歌ではない。それにもかかわらず、しかも伝統の核となる老人からこのような意見が出たことに私は驚いた。守らねばならない伝統、世界の趨勢に対して変わっていかなければならないもの、そのはざまに私たちはいる。

泰雅族

最初に彼らの村を訪れた時の印象である。険しい山を抜けていくとその高台から、広大な川とその川から急激に立ち上がった山々が拡がっていた。そして、切り立った山に囲まれたわずかな台地に、家々が集まっているのが遠望できた。山と共に暮らしてきた彼らの厳しい生活が想像できる。急峻な山は地震によって多く崩れ、果物畑も大変な被害を受けた。またその後の台風では、仮設住宅が吹き飛ばされそうになったという。村長は若く、小説家でもある。地震の後に彼は村長となった。彼は「この村の一族は独立心が強く、自分たちの力で生活を建て直していこうと考えている。」と語った。過去、日本時代最大の汚点と言われる「霧社事件」が泰雅族から起こった。多くの日本人とそれ以上に泰雅族の村人が殺されたのである。だが、誰一人そのことを語る人はいなかった。
私はこの地域の村の人々に溶け込み、一緒にご飯を食べた。皆が親戚同士であるという。そして多くの人が当たり前のように日本語を話していた。私は時々ここが台湾なのか、日本なのかわからなくなった。酒を愛し、山を愛し、厳しい生活と更なる試練のさなか、彼らはおおらかさを失ってはいない

03 藍林世祥さん(バーイさん)77歳
Suyan-Bay, 77years old, Taiya tribes

つらい経験は、彼の誇りでもある。
最後に、「三食足りて日々暮らせるだけで充分幸せだ。それ以外にはもう望まない。」
と、ぽつりと語った。
最初に会った時、戦争帽と勲章を身に付け、パリッとした身なりで大きな声と流ちょうな日本語で、敬礼しながらあいさつされたのが彼だった。私はまるで50年前にタイムスリップしたような強烈な印象を忘れられない。

最初、彼の戦争は終わっていないと語った。彼は戦争中、南方の最前線へおもむき、そこで4年間を過ごして帰還した。多くは語らなかったが、地獄を見るような過酷な経験であったと思う。彼は最初、彼の中で戦争は終わっていないと語った。戦後保障の問題がすっかり片付いているわけでなはいと言う。つらい経験でも彼の誇りでもある。忘れ去ることのできない理由が今も彼の周りを取り巻いているのだ。しかし、「自分はもう年をとり、いつ死ぬかわからない。三食足りて日々暮らせるだけで充分だ。それ以外にはもう望まない」と最後にぽつりと語った。

04 藍張阿花さん(ハナさん)66歳
Hana-Suyan, 68years old, Taiya tribes

若いころから兄弟の世話を焼き、そのせいで一番背が小さいのだ、と笑っていた。
幼い子供を育てながら働いていた時代、ある人が「子供が川でいなくなったよ。」という心無い冗談を言った。
半狂乱となって家に戻り、子供の無事を確認した後、それが冗談だったと気づいた。くやしさを必死で我慢をしたという。周りの人を愛し、育てる、優しくまなざしを常に感じた。優しいまなざしの奥には、厳しさを耐え忍ぶ強い忍耐力があった。
その村には美しい三姉妹がいた。一番上のお姉さんで、やさしく多くの人の世話を焼くおばあさんである。若いころから兄弟の世話を焼き、戦争中も兄弟を背負い、手を引きずって逃げたと言う。そのせいで一番背が小さいのだ、と笑っていた。
また伝統的な機織りの指導者でもあり、忙しい生活の合間をぬっていつもはたを織っている、という。雨で畑仕事ができない時、静かにはたを織るのが一番好きだと言っていた。文化でもあり、収入源でもある機織り、節約してシンプルな生活を守り、伝統も守る。
周りの人を愛し、育てる、優しく強いまなざしを常に感じた。はたを教える時、子供のしつけをする時も決して強制することはないという。その人を認め、その人が自然にそうなるのを見守る。やさしいまなざしの奥には厳しさを耐え忍ぶ強い忍耐力があった。

05 陳慶和さん(ノーキンさん)66歳
Yapu-Nokin, 77years old, Taiya tribes

彼は村の牧師であり、まじめで勤勉だ。そして彼の妻は今では歩けなくなり、不自由な車椅子の生活だが、献身的に世話をし、彼女の手となり足となっている。果物畑の労働もし、牧師の仕事も欠かさない。折しも果物の収穫で忙しい時期だったが、合間をぬってお話を聞くことができた。
それを裏付けるのはもちろん深い信仰だが、身を粉にして働き続ける彼の姿勢はそれに余りある。畑を手伝いに山に登ったときのことだ。彼は高い崖を登り、まきにする崩れた木を切り落としていた。後で聞くと、彼は関節痛があり、痛み止めの注射を打っているという。
また、泰雅族の家々が地震で壊滅状態の時、仮設住宅を建てる土地を彼は無料で提供した。しかし、村の中で政府から報酬を受け取ったといううわさが絶えず、くやしい思いを感じているという。だが彼はその思いを飲み込み、辛抱強く会話を続けていく努力を欠かさない。家族をささえるだけではない、社会的な責任感が彼の中で常に燃えていた。

大里市

大里市は地震のダメージが大きい場所だった。高層マンションがドミノのように崩れた写真は、この地震の一つの象徴として扱われている。その高層マンションは今ではすっかり撤去され、街の中にポッカリと大きな空き地が空いている。多くの人が移住し、人々の心の中にもそのような喪失感が拡がっていることは確かであろう。

06 頼天賜さん(ライさん)75歳
Ray-Tenyou, 75years old, Tari town

2年前妻を亡くした。地震の時も彼は逃げず、家の中で妻の位牌と共に暮らした。生活の中からうるおいがなくなり、その後家族の問題も浮上した。
そういうことをすべて踏まえた上で、彼は私は楽天教の信者だ。と冗談を言った。笑っているとも泣いているともつかない顔だった。
彼は台湾で有名な一族である林家の親戚にあたる。ただ、母親が正式な妻ではなかったため、幼少から苦労して家計をやり繰りしながら、苦学したという。朝起き、商売をした後、遠くの学校まで歩き、昼休み、甘味点心を売って、また学び、長い道のりを帰る。その生活では3時間ほどしか寝ることができなかった、という話しは驚きを禁じえない。
その後も志願して軍隊に入る。当時の出世はそれ以外にはなかったという。戦後、著名な映画監督の助手として、多くの仕事にかかわり、霧社事件のことも取材したと言う。不幸な行き違いが事件の発端であったことを客観的に語ってくれた。人生の師であった映画監督が亡くなり、その後教育にかかわる様々な転機があった数奇な人生を語ってくれた。大きなはりのある声でふりきるように日本の演歌を歌う彼の細い体に生きる力強さを感じた。

07 呉海万さん 72歳
Uho-Kaiwan, 72years old, Tari town

「今望むことは、子供たちの健康だけ、
自分は欲もなく人生をささやかに全うするだけだ。」と語る。
「欲を持つことは必要ない。」と繰り返し語った。
命運を天にまかせて、自然に日々を送りたいと。
呉さんはその崩れたマンションのすぐ隣のマンションの最上階に住んでいる。すぐ隣のビルが崩れ、自分のビルが残ったこと、その運命のいたずらを感じたという。マンション最上階の地震時の揺れはすさまじかったと言う。
多くは語らなかったが、若いころ事業に失敗し、子供も長い看病の末亡くし、また孫の数は多くないとさびしそうに語る。彼の喪失感が語りの様々な場面で感じられた。その思いを押さえ、忘れるために努力しているという。今望むことは子供たちの健康だけで、自分は欲もなく人生をささやかに全うするだけと語る。欲を持つことは必要ない、と繰り返し語った。命運を天にまかせて、自然に日々を送りたいと。今、かわいい生まれたての孫の育成を見守りながら、静かに暮らしている。

台中市

被災地域の最大都市であり、人口比率も高い。マグニチュードの大きさとは別に、地域最大の被害を受けた場所である。

08 鄭三郎さん 76歳
Tin-Sanluang, 76years old, Taijon city

最初に会った時は、ネクタイに背広をバリッと着た人で驚いた。若いころから一貫して教育に携わって来られた方で、厳しく一徹な面持ちをした方であった。おそらく彼は、自ら伝えるべきものを持って自ら取材に来られた方である。私はそれまでの会話の記憶から、過去の日本の教育についての発言、それも倫理・道徳のことを多く聞く経験を持った。
彼は若い人に伝えるべき確信を持って、私の前に現れたのだ。多くの学識を交えながら、彼は中国思想の善にもとづく倫理・道徳を語った。曲げることのできない信念として、それは彼の教育者としてのまさに遺言であったと思う。

09 林陳美珠さん 85歳
Linchen-Minshu, 85years old, Taijon city

苦難の時にどうしたらいいか、と質問した時、「我慢すればいい。それはどんな苦難ですか?私は水害に2度、火災に1度遭いました。」と彼女は答えた。
どのように日々を楽しく過ごしたらいいか、と質問した時、しばらく考えて、「それは難しい。考えつきません。」と彼女は語った。
私は言葉を失った。そう、彼女はうれしいとか楽しいとか感じることもなく、ただただ働いて人生を過ごし、家族を支えてきたのだろう。彼女は今多くの家族を持っている。家族が彼女の財産だと言う。
彼女は今、病院で寝たきりになっている。動けないことがきつい、と彼女は言った。それが彼女の能動的なものを奪い去ったからだ。原因は若いころの苦労だと言う。子供を7人持った彼女は、働き詰めに働き、とうとう体を壊したという。後で聞いたが、結婚は祝福されたものではなかった。
彼女は多くの家族を持ち、家族の支えが彼女の財産だと言う。彼女の職は裁縫で、せめて今好きな刺繍をして楽しく日々を過ごしてくれることを願ってやまない。

10 鄭順娘さん 72歳
Tin-Juannyan, 72years old, Taijon city

彼女は会話の間、やさしい笑みと敬語を絶やすことはなかった。
彼女は今、多くの苦労を全て運命として受け入れようとしている。
「大切なことは感謝だと、私は今すべてのものに感謝しています。」と彼女は語った。
やわらかく、上品な物腰の美しい奥様だった。(私は彼女のことだけはおかあさんと呼べず、奥様と呼んだ)彼女は会話の間、やさしい笑みと敬語を絶やすことはなかった。
彼女は林家の子息である。林家主人の三番目の子として生まれ、幼いころから利発な彼女は皆に可愛がられて育ったという。しかしその後運命は急展開する。主人の死、家族離散、家宅の戦争による焼失。その後同様に格式高い大家との縁談結婚後、彼女はホテルの経営者として生活の建て直しを自らの手で行う。私は戦争の記憶に対して日本人として後ろめたく感じることを言った。しかし彼女は毅然として、当時は自分も日本人で、そういう運命だった。誰が悪いわけでもなく、自分は分子原子の様々な構成要素の一部だっただけだと、きっぱりと言った。
林家の伝統家宅は地震で壊滅した。彼女はそのことを思うたびに、半年間泣き通しだったという。物理的なものだけではない、400年以上続いている伝統、その一族である誇りがいかに彼女にとって大きいものだったか、想像に難くない。
彼女は今、多くの苦労を全て運命として受け入れ、またそう思おうと努力している。大切なことは感謝だと、私は今すべてのものに感謝しています、と彼女は語った。

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